朝井リョウ『何者』を読んで自殺を考えた
初めまして。
群馬の大学4年生。
つい最近就活をやめて、内定は1つもない。
そんな感じっす。
俺は、朝井リョウっていう作家の『何者』っていう小説を読んだことがきっかけで自殺を考えたので、その経緯を書こうと思う。
俺がどんな考えの人間かっていうことを伝えたいので、あえて冗長気味に書いてみた。
(一応注意書きとして、これは朝井リョウを批判しているわけでもなく『何者』を批判しているわけでもない。むしろすごく大好きな作品)
インターン
事の発端は3年次に参加した1ヶ月のインターン。
自分の通っている大学は、学生の親向けに就活講座をしたり就職センターという場所で女神のように優しい職員と面接練習ができるという温室過保護大学で、学生たちは感覚的には何もしなくても親の望む進路に進むことができる。
「インターン」っていう授業があって、それを受講すると大学の提示した企業にインターンに行くことができる。
単位も貰える。
そんなことしてるから学生は自身でインターン先を「見つける」ということをそもそも知らない。インターン先は大学が用意するものだから。
そんな中、イキった学生だけは自分でインターン先を探し出していた。俺だ。
自分の意思で就活しているようで大学からの情報に流されているやつらは馬鹿だと思った。
インターン先は東京都内の某IT企業。
2回の選考を通して、合格した者のみインターンに参加できるタイプだった。
そして通った。都内の企業のインターンの選考に通ってやった。
俺は周りと違う人間だった。
1ヶ月間ほぼ毎日出勤するやつだったので、キャリーケースを担いで都内のカプセルホテルやネットカフェでずっと寝泊まりすることにした。
俺は周りと違う人間だった。
業務はクソだった。
詳しい内容は書けないんだけども、単純に難しかった。なんでこれをやらされてるのか理解できなかった。
他のインターン生が真面目にやっているのは、この企業の言いなりになっているからだと思った。
ある日、毎回書かされる日報に「あんたらがこれを学生にやらせる理由」を考察した文章を書いて帰った。
次の日、人事に呼び出されて1時間30分説教された。
そこでも俺は人事に反論し尽くした。納得させてやると思った。
俺は周りと違う人間だった。
『何者』に出会う
業務が終わると、宿を探さなければならない。
宿探しは、決まってオフィスのそばのTSUTAYAとくっついたスタバだった。
その日はTSUTAYAにも寄った。普段は新書しか読まないけど、小説を読んでみようと思った。
たまたま目に留まった『何者』を立ち読み。
荷物になるから立ち読みで済まそうと思ってたけど、最初の数ページを読んで面白いと思ったので買った。
カプセルホテルの狭い部屋でしっかり読んだ。
あんまり覚えてないけど『何者』のあらすじはこうだ。
テーマは就活。
主人公の周りは、親のいいなりになって就活するやつ、グローバルグローバル言ってる意識の高いやつ、「集団には属すのはクリエイティブじゃない」って言ってる意識の高いやつなどが登場する。
主人公はそいつらをひそかに馬鹿にする。
そしてこれはネタバレになるんだけど、最終的にその主人公は自分のほうが哀れだったことに気づかされる。
実は、登場人物の中で主人公だけ就職浪人中だったのだ。
そして気づいちゃった
つまり、「周りのやつらはアホだって思ってるやつ痛すぎ。やつらはやつらで真面目に考えて行動してる。お前は周りのやつらを分析して上に立っているつもりで何も出来てないやろ」ということだった。
主人公は俺そのものだった。
俺は周りと違う人間だと思って生きてきて、自分が一番賢いと思っていた。
でもインターンでは業務についていけなかった。
思えば今までやったバイトは全部半年以内にバックレか店長との喧嘩で辞めていた。
そしてそれから1年経って就活の時期になった今、俺はお試しのつもりで受けた企業の選考に落ちた。ワロタ。
主人公は完全に俺そのものだった。
俺は何もできない人間だった。
それでも残っていると思っていたもの
でも、俺は社会的に生きるのが苦手なだけなんだと思った。
就職に向いてない。むしろ就職に向いているやつのほうがダサいんだと。
だからこそインターンでも人事に刃向かったし、バイトを辞めることに抵抗がなかったのかもしれない。
頭いいし、普段からちょっと読書してるし、学問とかそっちのほうに行けば輝けるんだと思った。
卒論を書く時期になり、いよいよ自分の力を示す時がきた。しめしめ。
研究のテーマにしたいものは、アイロニーとユーモアだった。
まずは参考文献を読むべし。
先輩にテーマを伝えたところ教えてもらった本は、
しかしこれが難しすぎた。難しすぎる。冗談抜きに難しい。
1章から難しい。日本人が日本人のために書いた本なのに読めない。
そして「読めなかった」とわかった瞬間に、俺の中でいろいろ崩れた感じがした。
死ぬか!
就職することもできない。頭がいいわけでもなかった。
『何者』とかいう小説のせいで余計なことに気づいてしまった。
どうすんだ俺?
今は親の財力で生活してるけど、金を生み出せない俺は卒業したら追い出される。
奨学金借りてるし、完全にマイナスしかねえじゃねえか。
しかも最近体の調子が悪い。病院に行くのをずっと渋ってたら、身体中が痛い気がするしすぐに風邪をひくようになったし全然治らない。肉体労働もできないじゃないか。
あ、死ぬか!
というわけ。
まあ、死んでないんだけどさ。
気づかなかったほうが幸せだったかも
ここから本題。
『何者』の中では、主人公は自分が哀れだったことに気づく。
それはある種の救いのような形で描写されているように見える。
自分が哀れだということに気づかないで終わったほうが残酷な話に見える。
でもさ、気づかないまま、自分に根拠のない自信を持ったままだったら、俺はそれをモチベーションにして今でも何か行動していたと思う。多分だけど。
少なくともインターンとか就活したし。
俺は何もできないんだと気づいてしまったがゆえに、何もやる気が出ない。
ほら、意識高い「系」であろうと、意識低いやつらよりはちょっとマシって言うじゃない。
今思えば、ずいぶん前に買った『「自分だまし」の心理学』(菊池聡)にこんなことが書いてあったような気がする。
自分を「有能だ」と騙せる人間の方がむしろ健康的な精神を持っている。
とかなんとか。
こういうことだったのか。
確かに今の俺は決して健康ではない。
結局どっちなんだろう。
自分に関するメタ認知をしっかり深めてしまって絶望するのと、
本当は無能でも自分を有能だと信じ続けるの。
どっちを選べば俺は幸せになれるんだろか。